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酒は嫌いではない。むしろ好きかもしれない。
食べる事も大好きだ。
酒飲み曰く、あくまで酒をうまく飲むために
つまみを食べる。大阪でいう「あて」である。
酒のための肴と椎名誠先生は言っていた。
そういう意味では私は本当の酒飲みではない。
なぜなら、食うのがすきだから。
あくまでおいしく食べるための酒なのだ。
だから私は「もの食い」なのである。
酒を飲むと食い物が実にうまい。
そして酒もすすむ。
酒を飲むとなぜか腹が減る。どっかの神経がやれれるのか?
なんで、私はシメものを頼まずにはいられない。
シメとは酒の最後に締めるからシメなのか
はたまたメシを業界人のごとく反対に読んでシメなのか
どうでもいいがこれがまたうまい。
このシメのために酒飲んでいるといってもいいくらい。
カニちりのあとのカニ雑炊。
てっちりのあとのふぐ雑炊。
ちゃんこのあとのチャンポン麺。
焼肉のあとの冷麺。
その他、茶漬け、日本そば、ガーリックライスなどなど
炭水化物系で腹にたまるもの。
まあ、これで終わればいいのだが、
これを第一のシメとして、
二次会、三次会と酒を酌み交わし、
最後にもう一度、本日のシメをおこなう場合がある。
このシメは間違いなく体に悪い。
みんなと別れ、一人で意識無くおこなう場合もあれば、
みんなでシメを食べる場合もある。みんなで行くと
ラーメンだけでなく、ついでにビール、餃子も追加となる。
へたすれば、キムチチャーハン頼んで間食するから怖い。
間違いなく病気だ。
そう、酔っぱらうからどうでもよくなり、腹の感覚も鈍り
食欲とういう本能だけでついつい食べるのだ。
まさしくゾンビと言っていい。
最近の実験として、宴会が始まる前に
ひとりで天そばを食べることにしてみた。
昔、まだ20代の頃、東京で酔っぱらってはいけない
大事な宴会があると最初にイカ天そばを食べてから
事にのぞんだ。
そう、空腹だと酔っぱらうからだ。
イカ天一杯たべるだけで、無敵だった。
朝まで眠らず、酔わずにつきあう事ができた。
そして40代の最近はどうかというと、
天そば食べても、普通に酔っぱらうし、つまみも
食べれる。
さらに困ったことに、シメものもみんなと一緒に
なって食べてるではないか!
なかった。まるで意味がなかった。
歳をとってさらにいやしくなったのか?
確実にゾンビに近づいておる。
緊張感がある時、すーっと消えて
気持ちほどける瞬間がある。
葬式や通夜でさえ、ちょっとした笑いが
おこるときもある。
ただし、よほど痛ましい事故や事件あるいは突発的な
病気での葬式でない限りだが。
私は行った事ないけど、戦場でもそうに違いない。
ふと穏やかなキャンプ地に訪れる和みの瞬間。
丸一日でなくともほんの1〜2時間でもそれは訪れる。
今がはたして戦時中かと思うほどの
穏やかな時間。
どんな時間だろう?
チョコレートが、支給された時。
羊羹が配られた時。
本日の夕飯はカレーライスだと告げられた時。
そして、桜が咲いている時。
今だかつて、桜がこんなにきれいだなんて
気付きもしなかったのに。
ましてや桜が咲いていることすら目に入らなかったのに。
そんな一瞬に愚かな人間は緊張がほどけて
生きている意味とか、人のやさしさを
取り戻すのではないのか?
人間が死のうが、悲しもうが、おごり高ぶろうが
喜ぼうが、闘おうが、入学しようが、中退しようが、
そんなものに関係なく桜は毎年咲き続ける。
桜はマイペースなのだ。
人間のことは別にかまっていない。
自然の強さであり、往生際のよさであり、
ごくごく全てを自然な流れで受け入れる。
散りたくないとは言わずに
当たり前のように桜の花は散りゆく。
その桜の存在に気がついたのは
私は40歳をこえてからだった。
今年は是非にも花見をやりたい気分だ。
桜の下で大宴会して、ほんの少しだけ
何かを考えよう。
今度はさっきとは逆で、リラックスした時間の中で
一瞬、時間が止まる瞬間を感じたい。
それは突然にやってくるが
大事な気づきが訪れる。
生まれてきた意味をわかりかけて・・・
もう少しのところで、また宴に戻っていく。
地震、津波、原発事故で
「ザ・花見」を自粛しようと言うこの動きは
いったいどこからくるのか意味がわからない。
日本人に何も感じさせないための当局の陰謀か?
花見こそが日本人の魂ではないのか。
イベントはじめエンタメをどんどんやるべし!
東京のものを西日本でやるべし!
チリの炭坑事故でも最初は食い物、毛布、
やがてゲーム機を欲しがっただろ!
人間は享楽がないと恐怖で生きていけないのだよ。
今年は花見是非にしたい!
しかし、花見って大変である。
自然あいてなので、いつ花が咲くのか
組織的にやるとなると、よほどのリーダーシップが
ないとやりきれない。
寒かったり、暑かったり、場所とりだったり、雨ふったり。
だから、日本人の組織力がためされる場所ではある。
それから、花見で焼肉は禁止にしたい。
あくまで花見はおでんとお弁当だ。
カラオケも禁止!
照明も1グループ2発まで。
ああ、そういうものを自粛ね!了解。
地震、津波ときて原発事故だ。
さらに、何やらの予言やら、噂や、らしきテレビ番組などで
地球滅亡説が他人事のようにささやかれる。
地球そのものが銀河系ごと滅亡してしまう可能性もあるし、
地球そのものは生まれ変わるが、人類含めて
生物がいったん滅びることもある。
なんにせよ、個人の力ではどうしようもない。
人間の力や科学の力でもどうしようもない。
もはや、ケセラセラだ。
いろんなSFや滅亡小説読みながら
自分なら地球最後の前夜に何をする?といった
問いかけを何十年も考えてきた。
どんちゃん騒ぎ。
やけ食い。
自暴自棄になっての狼藉、盗人、暴動行為。
知人全員に会いにいく。
夫婦で静かに時を待つ。
親、兄弟もいれておくか。
酔っぱらう。
こんな日のために用意した地下シェルターに避難する。
ハラミと白ごはんを食べる。
将棋を打つ。
吉高由里子に逢いにいく。
祈る。
拝む。
寝る。
墓参り。
念仏をツイッターする。
いろいろあるが、最適の答えを随分前に考えた。
その答えとは
「来週提出予定の宿題をやる。」
今なら、「来週提出予定のプレゼン資料をつくる。」
あるいは、「見積をつくる。」
夢を考える。
目標を立てる。
ダイエットする。
などなど
要はいつもと変わらぬ普段の行動をしようというものだ。
やるべきことをしっかりと。
なぜなら、「もしも明日地球が滅びなかったらどうすんだよ!」
と、超現実主義のシカラー(=叱ってくれる人)に怒られそうだからだ。
テレビのACでも言ってるけど
自分のできることをしてくださいと。
ここで改めて気がついたが、やらなければならないことって
前向きなものが多いなあ。
えー、とりあえず被災にあってない人に告ぐ、
地球滅亡はいいから、明日の仕事を考えよ!
地球よりも自分が滅亡するぞ。
よくできたもので、世の中には本当に
ちょうどいいサイズというものが存在する。
人それぞれの好みもあるが
私なんかは、吉野家でいうと「牛鍋丼の並」の
あのサイズがちょうどいいと思う。
値段と味とのバランス感に満足感をおぼえてしまうんだよ。
あくまで牛丼ではなく牛鍋丼の話で、しかも吉野家の話でだが。
牛鍋丼は一杯280円にして、牛丼とは違い、
しらたきと焼き豆腐が一つ入っている。
その焼き豆腐がうれしいねえ。牛とタマネギしか入ってない牛丼に
くらべて、焼き豆腐ひとつで随分と物語が広がる。味の層が厚くなる。
クローズZEROの鈴蘭高校のように層が厚いのだ。
シラタキに関しては、いたかどうかのさりげなさがたまらん。
謙虚さの美徳だ。今でも ん?本当にシラタキはいたのか?
と疑ってしまうくらい。
だからといってトッピングで焼き豆腐だけ追加するというのは
また別の話だ。焼き豆腐は一つで充分。
大盛りも牛鍋丼の場合はバランスガくずれるので並にすべし。
牛丼は大盛りでも特盛でも好きにすればいい。
ただ牛鍋丼は並でないといけない。
大盛りやメガサイズを否定しているわけではない。
腹八分目を推奨する気は今までも、この先もいっさいない。
クアアイナのハンバーガーも好きだし、
メガ盛りの次郎系ラーメンもこれでないと食った気はしない。
コーヒーは少し大きめのマグカップになみなみといれ
仕事しながら飲む。いつの間にか
仕事に没頭してコーヒーを飲む事を忘れてしまう。
まだ少し残っているにもかかわらず・・・
実はここが自分にとってコーヒーのちょうどいい量(サイズ)なのかもしれない。
コーヒーを飲む事に専念すればコーヒーを飲み切ってしまうところだった。
決して、その残った冷えたコーヒーは飲んではいけない。
ちょうどいいサイズ。
よくモニュメントや装飾で巨大なものをつくる事がある。
普通サイズのものを大きく造って飾ったり吊るしたりする。
えー、大きくして可愛くなったものはない。
たいがいが怖くなる。
巨大は巨大でも、かに道楽のあのカニはちょうどいいサイズだ。
もしも、あれの5倍くらいのカニを造ったら、人々は逃げ惑う。
ケンタッキーのカーネルもちょうどいい。
クリスマスリースやツリーは考えもので
ある大きさを超えると吐き気がするほど、不細工だ。
特にツリーのもみの木の葉っぱを通常のサイズのものを使用して
巨大ツリーを造ると、尺があってないのでグロテスクに仕上がる。
巨大ツリーならもみの葉っぱごと巨大化しないとバランスが悪いのである。
わかりやすくいうと、1000人分の巨大お好み焼きがどこかこわくて
グロテスクなのは、それにかける青のりとカツオ節が通常サイズ用のものを
かけているからに他ならない。青のりとカツオ節も尺を合わせて
巨大化すればもう少し見た目にはおいしそうになる。・・・か?
牛鍋丼の豆腐で思い出したが
昔読んだ、子供向けの科学の本で、「もし豆腐がビルディングぐらいの
サイズになったらどうなるか?」という空想上の挿絵が描いてあった。
それは豆腐がビルの狭間で自分の重みに耐えきれず、グニャリと真ん中で
折れ曲がっている世にもぶざまな姿であった。
そしてそれはとても怖い絵だった。
何事にもちょうどいいサイズがあるということで。
えーブログにもちょうどいい長さがあると思うので、
今日はこのへんでおしまい。
昔から怖いものの代名詞に地震、雷、火事、オヤジというのがある。
津波は入ってない。ましてや大津波は。
そして原発事故も入ってない。
大津波についての認識が甘かった。いやなかったのだ。
私も含めて多くの人たちが。
津波のこわさ。津波と大津波の違い。
原発関係者は地震は考えていたかもしれないが
津波や停電のことを考えていたのか?
その重大さをわかっていたのか?
怖いものの中にもう一ついれたいものがある。
実は一番怖いのかもしれないが。
それは人間の言葉によるあおりだ。
言葉をしゃべればしゃべるほど、自他ともに
恐怖が増殖する。
その言葉が正しかろうが、正しくなかろうが・・・
情報不足が必要以上に人々の不安を煽り、
インターネット社会の無責任さと脆さも露呈した。
被災地に公衆電話を設置したということだが
どれほどの人が、どれほどの電話番号を暗記しているのか?
言葉が人々の恐怖を煽るというのは
地震がおこっているときに、既に始まっている。
地震が来た。
誰かが言う「揺れている?地震か?」
誰かがこう返す「でかいぞ!これは結構でかい。」
誰かが言い出す「長いな・・・」
誰かがつぶやく「やばいよ・・・」
誰かが大声だす「逃げた方がいいぞ!」
誰かがとどめをさす「これは、本当にやばい!やばいやばい!」
この一連のやりとりで人々の恐怖レベルがズン!とあがる。
最初の揺れがおさまったあとも
何やらきな臭い噂が漂ってくる。
南海地震の前触れ?余震くるぞ!
人間の言葉ってすごい力を持つのだ。
デマとか煽りに気をつけて、
よく考えて行動にうつすべし。
ふと、人間の言葉による恐怖の煽りは
不謹慎ながらなにかを思いだした。
あっそうだ、Hのときの言葉責めだ!
言葉を発してH感を高めるという。
でも、これはAV見過ぎの人の間違った認識。
女子からはかなり評判悪いみたいである。
うざい!うっとしい!やかましい!黙ってろ!
と・・・無駄な言葉はいらないのだ。
なぜなら女子は男子に比べ本当は野性的だからか?
またまた余計な言葉を発してしまったようだ。
言葉は大切だけど、無駄な言葉は害だ。
肝心な時には黙って行動あるのみ。
これが何かと具合がいいのではないかなあ。